どうして英国菓子を選んだの?
- 直 野村
- 8月15日
- 読了時間: 8分
更新日:10月26日

ひろしまで英国菓子と紅茶のある暮らしOHISAMAを運営しているノムさんです。
ノムさん自身のことは一番下を読んでもらうとして、たぶんこれを今読んでいるみなさんが一番疑問に思っている「なんで英国菓子なの?」かについて、ちょっとお話ししようと思います。
◆笑われましたねえ
2023年末のある日、パン屋から洋菓子屋それも広島ではあまり知られていない英国菓子屋になるというと、みんなに笑われました。
ある洋菓子屋さんからは、「そっち行っちゃたかー」と言われたこともありました。
そっちとは、洋菓子の世界ではかなりどころか、相当狭いニッチな部分を指していることはなんとなくわかりました。
行っちゃたかーは、小さな市場でお客様も少ないところだと商売にならないよという気持ちが含まれていたことも、薄々感じました。
◆はじめはパン屋だった
2010年4月、ノムさんは実は世界遺産の宮島でパン屋を開業しました。

なぜパン屋だったこというと、2年かけて島の中で聞き取り調査を続けたところ、高齢者が多く柔らかいパンは食べやすく、買い物をしても軽いから持ち運びしやすいから、焼きたてパンがあったらいいねえとたくさんの人から聞いたからです。
世界的な観光地で土産物屋や飲食店は無数にあったものの、生活者の視点で見るとコンビニや一般的な大きさの食品スーパーも当時はありませんでしたから、パン屋があれば役に立てると思ったんですね。
宮島には何もつてがありませんでしたが、島のクラブ活動に参加したり、人を紹介してもらう中でパン屋を開いてもいい場所を貸してくれる方と出会い、店づくりが本格的に始まりました。
◆スコーンが英国菓子とは知らなかった
ところでまるでノムさんがパン屋にいたみたいに思われるかもしれませんが、実はそれまでパンを焼いたことがありませんでした。
そこでまず、東京のパン学校で3か月の寮生活を送りながら製パン技術を学びました。
学校生活を終えて宮島に戻り、特産のしゃもじを作るときに出る端材を燃やしてパンを焼きたかったので、薪窯を作りました。
島で端材を処理するのはコストがすごくかかるそうなので、とても喜ばれました。
もちろん、燃料代が浮くのでノムさんも助かりました。
高校のサッカー部の先輩が宮島で2000年以上燃え続ける「消えずの火」を管理している大聖院の座主だったご縁で、薪窯の火入れ式をしてもらって2010年の4月に開業しました。
わかりにくい場所がまずかったのか半年くらいは地元の人さえなかなか来てもらえませんでした。
しかし口コミが徐々に広まると小さなお店はお客様でいっぱいになるようになりました。
繁忙期は毎日1、2時間でパンが売り切れてしまうため、何かすぐに用意できるものはないかと考えて作ったのがスコーンでした。
スコーンは生地を作って分割して薪窯で焼き上がるまでに30分くらいだったので、日本中世界中からフェリーでわざわざ来てくれたお客様へのせめてもの気持ちでした。
当時は、スコーンが英国菓子とはまだ知りませんでした、、、。
◆転落人生
閑散期の分を繁忙期で取り返そうと無茶な働き方をしていたせいで、1年のうち30日くらいを病気やけがで臨時休業していました。
6年目に入った時、これは健康を維持できないと宮島でパン屋をするのをあきらめ、縁あって今の場所に移転しました。
厨房も客席も広かったためベーカリーレストランに業態を変更し、2017年4月に開業しました。
スタッフは最大8人雇用しました。
最初の3か月はテレビや雑誌で宣伝してもらったおかげで連日、大行列でした。
しかし夏を過ぎたころからお客様が激減し、給料を払えなくなって頑張ってくれたスタッフには全員辞めてもらわざるを得なくなりました。
さらに運転資金が回らなくなったため、公庫から借金しました。
移転して2年目の年末、いよいよ家の貯金も底を着き始めたころ、「どうせだめなら宮島で一番喜んでもらえていたおひさまパンだけを焼こう」と開き直り、食パンとそれを使ったサンドイッチを作ることに路線を変更しました。
◆V字快復
種類を減らしたことでお客様にとってわかりやすいお店になったことが功を奏し、お店に活気が戻りました。
フルーツサンドを作るようになったら、人気にさらに拍車がかかり、フルーツサンドブームにも乗ってお店は大繁盛しました。
作っても作っても売り切れ、寝る時間を削って仕込んでいるとふと、宮島の時と同じことを繰り返していることに気づきました。
「何のためにお店をしているのだろう」
ノムさんはまだ答えを出せずにいました。
◆スコーンは英国菓子だった
廿日市へ移転して来て7年目に入ったころ、サンドイッチと一緒に細々と作っていたスコーンがちょっとずつ売れ始めました。

手軽にお店を始められるスコーン屋さんや、ネット販売だけのスコーン屋さんが世の中に増え始めたからでした。
いわゆるスコーンブームのスタートです。
それでOHISAMAでも種類を増やそうとレシピ本を調べていたところ、「英国菓子」という運命のキーワードに出会いました。
1000年前にはもうあったとか、スコットランド生まれだったとか、形の原型は王様が座る四角い椅子だったとか、今ではアフタヌーンティーやクリームティーにはマストアイテムとか、知らないことを初めて知って喜ぶ子供のようにぐいぐい引き込まれていきました。
書店のスタッフに「英国菓子」の本はないかと聞くと、紅茶コーナーにもっとあると教えてもらい片っ端から買って読みました。
英国菓子図鑑に掲載されている英国菓子もケーキも、ほとんどベージュか茶色で、お世辞にもおいしそうに見えませんでした。
しかしその見た目を補って余りある魅力的な物語、どういうきっかけで作られるようになって、なぜそれが姿形を変えずに現代まで残っているのかが書かれてあり、それがノムさんのハートにぶっ刺さったんです。
ノムさんが英国菓子にハマった瞬間でした。
◆他の英国菓子が売れない
本屋で買いあさったレシピ本に載っているスコーンをどんどん作って販売しました。
飛ぶように売れました。
同じレシピ本に載っていたジンジャーブレッドマンやショートブレッドも焼いて売りました。
けれどこちらは見向きもされません。
スコーンよりも値段が安いにもかかわらずです。
要はそんな英国菓子について誰も知らないんです。
◆二度目の転落
ノムさんは覚悟を決めました。
こんなに歴史があって、1つ1つに誕生の物語もあって、個性的な味の英国菓子が日本で広まらないのはおかしい。
作っているところがないんなら自分で作って広めると決め、サンドイッチを作るのは一切止めて英国菓子だけに絞りました。
すると、それまでのお客様は買うものがなくなったと当たり前のように来なくなり、一日にお客様が数人という日が何か月も続きました。
それでも英国菓子のレシピ本に載っていたお菓子を1種類ずつ、失敗しながらも何度も作り直してお店に出していきました。
後に英国展に出展するきっかけになった、ウェールズの郷土菓子ウェルシュケーキも作りました。

ホットプレートの温度が左右や手前で安定しなかったり、生地の厚みによって焼きムラができたり、ちゃんと作れるようになるまでとても長い時間を要しました。
そうやって作ってもお店では全然売れません。
プライスカードや口頭での説明、SNSでの発信も頑張りましたが手に取ってくれる人はなかなか現れません。
◆英国展に出ると、、、
英国菓子屋になって5か月目のある日、三越伊勢丹のバイヤーから連絡がありました。
日本橋三越英国展へのお誘いでした。
当時はその催事の存在すら知りませんでした。
しかも東京なので出張費がかさむだけでなく、お店を長期間休むリスクもありました。
それでもお客様がとにかくいなかったので、何かのきっかけになればという想いで東京へ行くことにしました。
*日本橋三越英国展2024の様子はこちら↓
3日間の出展を終えて1か月ぶりに広島のお店を再開すると、英国展をきっかけに知ってくださったお客様が来てくれるようになりました。
イギリスへ留学していた人、イギリスで働いていた人、日本に留学しているイギリス人などなど、広島にも意外にいてびっくりしました。
懐かしいとか、広島で食べれるなんて嬉しい、と口々に言ってくれます。
英国菓子の歴史や物語を話すと喜んで耳を傾けてくれます。
そういったことをInstagramやLINEで発信するようになると、もう笑う人はいなくなりました。
◆日本橋三越英国展2025
そんなノムさんの運命を変えてくれた英国展がもう少しで始まります。
みなさん、一緒に楽しみましょうね。
日本橋三越英国展2025
◆関連記事
ノムさんの恩人BREW TEAさんのお話
◆SUNDAY MARKET
歴史と物語のある英国菓子と紅茶を購入できるオンラインストアはこちら↓
毎週日曜日のあさ8時59分(エイコク=英国)~よる8時59分(エイコク=英国)まで
◆書いている人
ノムさん
広島生まれの広島育ち。
小学校から大学までサッカーをずっとやっていました。
海辺育ちで潮干狩りや釣りが好きな子供でした。
得意なことは珠算を習っていたので暗算。
人生で一番長く聴いているのは坂本龍一の音楽。
あと、作業のストレスにならない理由から歌のないジャズをよく聴きます。
英国菓子を作るようになって増えた趣味はガーデニングで、まあまあのお金をつぎ込んでいます(*^▽^*)



コメント